龍馬

江戸時代

龍馬暗殺

※龍馬暗殺に関する覚え書きです。

  • 昭和20年〜昭和末までは新撰組の仕業だと思われてきた。徐々に京都見廻組の仕業だということに。
  • 今井は当初、見張り役だったと証言。明治42年に、斬ったのは自分だと証言を翻す。「世間では近藤と土方が犯人だと思っているようだが、実は自分だ」
  • 渡辺篤:京都見廻組。死ぬ前に家族宛に真相を書き記した文章が見つかった。家族宛なので売名ではない。裸の刀を袴に隠した描写や、帰りの道筋が記述されていてリアリティが。町木戸(夜は戸が閉められ番人が置かれた木戸)を通らずいけるルート。余談だが、本能寺の変の際にも光秀は信長に気づかれないように町木戸をすばやく破壊したそう。
  • 龍馬は暗殺されないように、土蔵の隠し部屋にいたが、風邪をひいたため暗殺日は母屋にいた。どこにいたかを知って入ってきたということは内通者がいた証拠?(当日訪ねてきた土佐藩士を2階の窓から呼んでいるので、乞食に化けていた間者のますじろうに見られたとしても不思議ではない)

  • 寺田屋事件で龍馬は伏見奉行所の役人をピストルで銃殺して逃走。役人殺しのお尋ね者だった。近年、事件の報告書が発見され、そこには坂本龍馬が持っていた書款を押収した」と書かれていた。寺田屋事件の前日に薩長同盟が締結。押収されたのは薩長同盟に関する文書? 龍馬が重要人物であることが幕府にばれてマークされた。報告書によると、才谷の変名ではなく、本名がバレていた。この文書は土佐藩が所持。京都所司代と土佐藩のつながり。土佐藩は脱藩者が朝敵になることを恐れ、龍馬にも密偵を付けていた。本名がバレる速さを考えると龍馬に関する情報を京都所司代に流したのは土佐藩?
    • 薩摩藩黒幕説:武力倒幕を潰した龍馬が邪魔だった。
    • 紀州藩黒幕説:いろは船事件。龍馬の船と紀州藩の船がぶつかって龍馬の船が沈没。金が積んであったと言い、8万両をせしめた龍馬。紀州藩をバカにする歌を流布した龍馬。

  • 佐々木只三郎:京都見廻組の組頭。暗殺を指示(今井の証言による)。会津藩(幕府と一心同体)出身。戊辰戦争で死亡。
  • その兄の手代木直右衛門(すぐえもん):京都所司代。
  • この兄弟が家族宛に残した私家本に、「手代木すぐえもん翁が死ぬ数日前に人に語ったところによると坂本龍馬を殺したのは実弟只三郎なり」との内容の記述。理由は「薩長同盟を謀り、土佐藩の意向に背いて倒幕派となったため」「黒幕は会津藩主松平容保」とのこと。君臣の美で領主の名前を隠し通していたが、家族にだけは真相を伝えようとしたのではとのこと。
  • 近江屋は醤油商。主人は新助。土佐藩邸の用便をし、薩長藩士のために手を尽くしてもいた。

  • 今井、渡辺、佐々木の3人の話が一致するのだから、佐々木が指示して、今井、渡辺が実行してみていいのでは。
    • 只三郎と直右衛門は兄弟なので真実を語り合っていただろう。本当に関わった只三郎ではなく、兄の直右衛門が死の前に言い残したというのもまた信憑性がある。

  • 墓場までもっていくという考え方は最近のもの。武士は死を覚悟したら現世と冥土は別だと考えていた。武士は戦の伝説を家に残さなければと考えていた……とのこと。
  • 会津はガチガチの幕府派。徳川家にとことん奉仕。龍馬ら革新派の勝利はとにかく困った。
  • 幕府側が勝っていたら龍馬らは悪のテロリストだったところが、逆になってしまった。
  • 龍馬だって自分を捕えようとしただけの役人を殺しているのだから、暗殺犯だからといって「人斬り」というマイナスイメージだけで見るのは不公平。
  • 手代木直右衛門や佐々木只三郎こそ侍の心を持ち続けた真の侍。薩摩も会津も日本のために一生懸命やったという思いがあるからこそ報復していない。

松平容保(会津藩主・京都守護職) ※龍馬の名前を知って斬れと命令したわけではない「よきにはからえ」 「倒幕派を排除しろ」という意向があっただけ? ↓ 手代木直右衛門(京都守護職公用人) ※暗殺の黒幕? ↓ 佐々木只三郎(京都見廻組与頭) ※くみがしら ↓ 佐々木、渡辺一郎、今井信郎、世良俊郎、他2名の6人 今井(見張り)、実行犯は渡辺? 龍馬を刺した脇差が残っている桂早之助?

  • 直右衛門は過去にも佐々木只三郎に命じて清河八郎を暗殺した過去が。

  • 龍馬の暗殺により、明治政府が一丸になった。
  • 明治16年 龍馬の初の伝記。幕末の英雄として大人気に。

参考

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