江戸時代
江戸時代の実権と区分†
江戸時代の年表†
- 1707宝永地震:東日本大震災以前では記録に残る最大の地震。大規模な津波。新田開発等による経済成長がストップ。低成長時代へ。
- 1712家宣死去:家継将軍就任内定。大奥の実権は天英院から月光院へ。
- 1714江島事件:月光院失脚。天英院が復権。天英院派の裏工作?
- 1716家継死去:危篤時から御三家から将軍を決めることに。候補者は尾張の継友(25)、紀州の吉宗(33)、水戸の綱條(つなえだ)(61)。綱條は辞退。
- 関係人物は発言力のある順に大奥の天英院(57)(家宣の正室)と月光院(32)(家宣の側室/家継の生母)>側用人の新井(60)と間部(51)>老中の阿部正喬(45)。
- 天英院以外は皆、御三家筆頭の継友推しだったが、天英院は吉宗を指名。しかし吉宗は固辞。
- だが、綱條、側用人は吉宗を応援。「家康のひ孫と玄孫ならひ孫の方が将軍に相応しい」「吉宗を跡継にとは家宣の遺言」「跡継ぎが尾張というのは継友の兄の吉通が後継者だったらという場合の遺言」
- 吉宗の裏工作。綱條には水戸藩への財政援助を約束。大奥にも予算計上を約束(江島事件の黒幕も吉宗だという説も)。老中には処遇の向上を約束。
- 1783浅間山大噴火
- 1783-88天明の大飢饉:田沼失脚。定信の改革へ。幕府が年貢を取り立てる軍事政府から、福祉を重んじる政府へと転換するきっかけとなった。数十万人が亡くなる(780〜86年の間に全国の人口が92万減)。江戸時代は太平の世というが、数々の災害や飢饉で大勢の人が亡くなった時代だった。戦国時代よりも死者数は多いのでは。
- 1804レザノフ来航:長崎の出島に。
- 1806露寇事件はじまる
- 1856ハリス来航:植民地競争に乗り遅れていたアメリカは焦っていた?(日本とは一番早く条約を結びたかった)
- 1858日米修好通商条約
- ハリスとの交渉にあたったのが海防掛の岩瀬忠震(ただなり)。不平等条約だが、最低限、京都の開港(尊王攘夷派の本拠地なのでトラブルが予想されるので)と外国人の国内の自由旅行の禁止(貿易の実情を幕府が把握できなくなってしまうので)だけは認めなかった。
- ハリスは先にアメリカと条約を結んでくれれば、英仏が過酷な条件を出してきてもアメリカがとりなすと文書で約束。
- 井伊直弼は現場の岩瀬忠震に判断を任せ、早く条約を締結しなければ列強の侵略を受けると確信していた岩瀬は確信犯的に条約の締結を断行。幕府はただの弱腰という印象があるが、内情をこのように捉えると、しっかりした理由の元で動いていることがわかる。
- 1864第一次長州征討:西郷率いる薩摩軍が長州を征討(西郷は当初は長州壊滅をもくろんでいた)。長州では保守派が政権を握る。西郷は長州に乗り込み、三家老の切腹などのぎりぎりの同意を得て長州を恭順。幕府を説得。
- 1865第二次長州征討:長州内部の政変で再び倒幕派が政権を握る。すでに長州と結んでいた西郷は長州出兵を拒否(幕府を見限っていた西郷が長州と手を結ぶのは自然な流れ)。幕府軍は大敗。
- 1868江戸無血開城:勝海舟vs西郷。
- 商売をしたいイギリスは、商業都市江戸を焼け野原にしたくなかった。
- 海舟はイギリス公使パークスに「江戸が焼け野原になったらイギリスも困るだろう?」と手を回していた。武器を頼っていたイギリスからの圧力があったため、西郷は総攻撃ができなかった。先に手を回していた海舟の勝利……という説。
- そもそも、イギリスと手を組んでいた西郷は江戸を攻撃できなかった。でもそれでは官軍の志士たちが納得しないので、正式な幕府代表でもなんでもない勝海舟を呼び出して「頼まれた」ふりをした……という説。
- とにかく新政府側は依然として強大な権力を持っていた徳川家を崩せればよかった。慶喜に再蜂起する気がないのであれば、わざわざ首をとることもなかった(?)。
- 江戸城には全国の城の設計図があり、新政府軍はそれらの地図が欲しかったという説も(城の攻略が楽になるため)。
- 明治維新はイギリス人たちの筋書きによって行われた。「黒子に徹して、あくまでも日本人同士だけで革命がおきたことにしなさい」というイギリス外務大臣の手紙や命令文が大量に残っているとのこと。
江戸時代の人物†
- 淀君
- 関が原後は京の建物の造営に尽力。関白は将軍より位が上だが、幼い秀頼はまだ関白になれなかった。
- 大坂の陣では秀頼をついに戦場に出さなかった。指揮はよろいを着けた自分が執った。22歳なのだから秀頼が指揮すればよかったのでは。
- 天秀尼
- 秀頼の娘。大坂の陣後、鎌倉東慶寺(縁切り寺)の尼に(兄の国松は斬首)。
- 桂昌院(お玉)
- 綱吉の生母。
- 八百屋の娘として生まれ、将軍家光の側室に。
- 父が亡くなり善峯寺に奉公に。
- 「いずれ高い位にのぼる相を持っている」という僧侶が予言をしたという逸話。
- 下級武士・本庄家の養女に(実父が野菜の取引をしていたため)。家紋は九目結文。
- 公家出身の尼僧の侍女に。
- 13歳で江戸城へ(尼僧が家光に挨拶)。尼僧が家光に見初められ、側室(お万の方)に。お玉もそのまま大奥で暮らすことに。
- 19歳で家光の側室に:その以前から春日局から教育を受ける。家光は勝ち気な女性が好きだったので、世継ぎ誕生のために身分を問わず側室にした。
- 東大寺大仏殿、法隆寺、唐招提寺、新薬師寺の修復。
- 亮賢に男子誕生の祈祷を依頼。「いずれ天下を治める」と予言。お玉は綱吉に徹底した儒学教育を施す。
- 家光死去。桂昌院と名乗る。大奥を去らず綱吉への儒学教育を続ける。
- 54歳で綱吉が将軍に。将軍の生母に。
- 護国寺創建(重職は亮賢)。
- 世継ぎを巡り、綱吉の正室信子と争う(確証はない)。
- 全国の寺の復興に尽力。莫大な予算。幕府の財政が傾く原因になったが、庶民にまで金が下りることによって経済が活性化。
- 隅田川の新大橋を架ける(広重が浮世絵を/芭蕉が句を)。
- 吉宗
- 紀州・紀州徳川家第2代藩主徳川光貞(家康の孫)の四男。母は元風呂番。風呂番の息子が日本一の将軍になったのだから凄い。
- 10歳まで城の外(伊勢松坂の加納家)で育つ。出世するとは思われていなかった。加納家は忍者に指示を出す立場。伊勢松坂は水銀の産地.
- 14歳。時の将軍綱吉と謁見。身分が低い母の子なので、将軍には会わせず隠しておくつもりが、老中の「子ども、まだいますよね」のひとことで会うことに。3万石をもらって大名となり出世コースへ。吉は綱吉の吉。
- 22歳。紀州徳川家55万石の第5代藩主に。長兄、父、三兄(鮎の酢の物による食中毒)が相次いで死去したため。吉宗の謀略?
- 29歳。家継の体が弱いため跡継ぎの話が御三家に。
- 尾張の第4代藩主吉通が死去。第5代藩主五郎太も死去(共にまんじゅうによる食中毒)。二人の死は継友の謀略? 吉宗の謀略?
- 吉宗は御庭番(スパイ)を紀州藩時代から重用していたので暗殺も可能だった?
- 33歳。将軍に就任。享保の改革。
- 上米の制
- 定免法
- 大奥リストラ(25歳以下の美しい者50人)
- 目安箱
- 御三卿の創設
- 大岡越前→町火消し
- 象の輸入
- 初めてビールを飲んだ?
- 手を付けた女中が解任したら部下に押し付ける。田沼意次の父も押し付けられたので意次は吉宗の
- 1729天一坊事件
- 家康主義への回帰(武道、倹約、学問)と家康主義の修正(欧州文化の導入)。
- 山岡鉄舟
- 貧乏だったので襤褸鉄というあだ名に。誰かが尋ねてきても奥さんは顔しか見せず。一着しかない着物の洗濯中だったのだ。
- 幕臣として西郷と会談し、江戸での戦を回避。
- 明治天皇の教育係に。辺り構わず相撲をとる明治天皇を押さえつけ説教し、そのまま帰宅するという前代未聞の行動を。
- 堀部安兵衛:柳沢が目をつけて武士道を引き締めようとした。仇討ちを望む世論を利用。きらていを江戸城内から本所へ移したのも柳沢? インフレからデフレへ。
- 大岡越前
- 吉宗時代。増反(新田開発)を行った。「○○新田」という地名は大岡が新田開発を行った証。
- 貨幣改鋳。いいお金を作らないと幕府が信用されなくなると提言。
- 田沼意次
- 重農主義(吉宗)から重商主義(田沼)へ。
- 天変地異が多く起きたため、「政治が悪いせい→田沼が悪い」ということに。
- 松平定信
- 米を基本とした経済に戻そうと奮闘。祖父吉宗の享保の改革を手本に。
- 天変地異で疲弊。
- 1790旧里帰農令
- 1972七分積金の制(災害に備えて江戸町会費の積み立て)
- 倹約令を出したことで評判が落ちる。巨大ビジネスとなっていた浮世絵の禁止。商人を押さえ込もうとした。経済の停滞。
- 家斉
- 幕府の財政難をなんとかしようと、悪貨鋳造で儲ける。→インフレを引き起こすも、貨幣の流通量は2倍に。商業の発達。読み書き算盤の必要性から寺子屋が生まれる。近代化に貢献。
- 文化の発展に貢献。
- 自作の絵や書、花を家臣に贈り労を労ったという気遣いの人。
- 『偐紫田舎源氏』のモデル?
- お美代の方
- 家斉の寵愛を受け、一側室でありながら大きな権力を持つ。家斉の死によって没落。晩年は東大赤門(娘の婚礼時に作られた豪華な門)近くの8畳の部屋で暮らす。明治5年77歳で亡くなる。
- 水野忠邦
- 松平定信の寛政の改革を手本に。
- 寄席の閉鎖。歌舞伎江戸三座の移転。
- 庶民の楽しみが奪われ「浜松の悪魔外道」と呼ばれるように。
- アヘン戦争をうけて、国防に力を注いだ人。長崎警備の経験。次は日本が危ない。
- 打払い令薪水給与令
- 台場(海上砲台)建設
- 印旛沼開発(江戸湾が封鎖された際に、別のルートから物資を運べるように。
- 1843上知令 江戸と大坂の大名の領地を直轄に。批判。
- 強引で根回しと説明責任が足りなかった。
- 水野家は譜代の名門だったが、不祥事で九州の唐津に異動。中央政治で腕を奮いたかったが九州の大名は長崎の防衛が任務で中央にいけなかった。浜松城主の井上の欠点をチクッって浜松城主に。
- 株仲間解散令
- 人返し令
- 遠山金四郎
- 水野時代。
- 水野に反旗。芝居小屋の廃止の際に反対。将軍が賛同してくれる。
- THEナンバー2「江戸改革SP」にてベストナンバー2に選出される。ナンバー1の領域を侵さず活躍。
- 坂本龍馬
- 岩倉具視
- 500円札の人。
- 錦の御旗を作った人。「誰も見たことがないのだから作ってしまえ」
- 明治維新の英雄として取り上げられることはほとんどないが、明治維新の一翼を担ったことは間違いない。
- 孫の孫が加山雄三。
- 下級公家として生まれる。
- 1858廷臣八十八卿列参事件:岩倉が首謀者。前関白の鷹司政道に取り入り共謀。老中堀田正睦と関白九条尚忠のラインを断つ。
- 京都手入れ:各大名らによる朝廷の奪い合い(朝廷に賄賂を)。それまでの朝廷や公家たちは無力化しており(大名たちに位を授けるという仕事をしていたものの、誰にどの位を授けるかは幕府が決めていた)、庶民は公家や天皇を意識すらしていなかった。しかし、黒船来航以後、幕府が「開国するかどうかは将軍を任命する天皇に聞いてみないと分からない」などと言って逃げたために、朝廷側も自分たちに発言力があるのだということに気づき、各藩も朝廷って重要なんだと気づいた。
- 幕府の一橋派と南紀派の争いも絡む。
- 安政の大獄により鷹司らは失脚するも、岩倉は妹の堀川紀子(もとこ)が孝明天皇の寵愛を受けて女児をもうけていたため処分を免れる。
- 公武合体に頭を悩ませる孝明天皇に、和宮降嫁をすすめる。幕府の所司代酒井忠義(ただあき)から、幕府衰退の情報を得ていた。岩倉は幕府との交渉役に。
- 老中・安藤信正との交渉。和宮を人質にするのではという噂を盾に安藤を叱責。老中ではなく将軍直筆の誓書を手にする。朝廷と幕府の立場が逆転。
- 和宮降嫁により、幕府に最も顔が利く公家に。
- 薩摩の接近。島津久光・大久保との出会い。
- 久光が過激派を惨殺した「寺田屋騒動」や、「九箇条の献策」は岩倉の入れ知恵?
- 岩倉蟄居。公家内部の勢力争い。三条実美(攘夷派)との派閥争いに負ける。岩倉自身は開国派に傾いていたので天皇は三条を重用し始めた。
- 孝明天皇暗殺疑惑。意のままに動かなくなった天皇を暗殺しようとした?
- 1866廷臣二十二卿列参事件:全員処分。首謀者が岩倉だとばれて絶体絶命のところ、孝明天皇が急死。
- 小御所会議〜王政復古:慶喜も明治天皇(15歳)もいない席で、復権した岩倉が幕府廃止、摂政廃止を宣言。慶喜は摂政就任を狙っていたが不可能に。「今であれば国会を廃止すると国会で宣言するようなもの」だそうでなんとも大胆。天皇毒殺疑惑のある岩倉と、西郷(警備に当たっていたので会議には参加していないが、休憩時間に「こんなものは短刀があればいい」と岩倉にささやいたとのこと)の2人の迫力に皆が押された?
- 龍馬暗殺の黒幕?:幕府を生かしたまま改革をしようとしていた龍馬が邪魔だった。中岡との会談。実行犯は中岡?
- 浮世絵
- 鈴木春信:錦絵の祖。プロではない素人の茶屋娘を描いてヒット。
- 喜多川歌麿:大首絵(バストショット)を開拓。
- 東洲斎写楽:謎の男。8ヶ月間の期間に140枚の作品を残して消えて行った謎の男。
- 歌川国芳:武者絵。西洋絵画の技法。猫。
- 葛飾北斎
- 「富嶽三十六景」「富嶽百景」「北斎漫画」
- クールな目線。デッサンうまい。人物も構図の一部。アイデア。完成された構図の面白さ。
- 大達磨を描くパフォーマンスで「屁クサイ」と署名。
- 八十過ぎて号泣。「絵がうまく描けない」と。
- 1999「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」86位(「ライフ」)
- 安藤広重:風景画で成功した北斎に倣って風景画の修行をしようと北斎の元へ。横柄な態度と部屋の汚さに呆れ、北斎のような絵は描くまいと思って仕上げたのが「東海道五十三次」。デッサンは下手だが人物の背中に哀愁と情感が。叙情の広重。
- 阿部正弘
- 若くして老中になったエリート。攘夷派。ちょうどいい年齢の譜代大名がたまたまいなかったため。イケメンだったので大奥の支持をとりつけられたため。ペリー来航にあたり、水戸斉昭(攘夷派)を海防の専門家として迎えてなんとかしようとするが、斉昭の烈公ぶりにあきれ、対抗しようと9歳年上の堀田正睦(開国派、蘭癖大名という悪口で呼ばれた)をカムバックさせて風よけとして老中首座に据えるも、実権は自分が握り続けようとした。
- 堀田正睦
- 堀田はハリスの謁見を実現させることで開国を果たすことが日本のためだと考えていたが、阿部の妨害により成功せず。阿部の死去によりようやく実権を握る。
- ハリス
- ペリーがうまく開国の任務を遂行できたので「同じような強硬な人がいいだろう」と送り込まれてきた人。クリスチャンで純粋に理念を広めたいと思った?
- ハリスが驚いたのが日本の識字率の高さ(井戸端で女中が本を読んでいる姿を目撃)。そんなことは世界でも稀。
- イギリスはともかく、アメリカは自身が植民地から独立できたばかりだったこともあり、それほど積極的に植民地にしたいというわけではなかったとのこと。交易と補給地としての利用が目的。
- 家定
- 脳性麻痺で言葉が不明瞭だったためバカだったんじゃないかと思われがちだが、頭脳は明晰だったのではという説も。正睦をだしぬいたりもしているとのこと。
- 井伊直弼
- あだ名はちゃかぽん。「一期一会」という言葉を作った。
江戸時代メモ†
- 江戸末期にまずアメリカと条約を結んだのは開国を迫る他国を牽制するため?
参考資料†
- 歴史秘話ヒストリア
- 西郷&鉄舟○(2012.2)
- 桂昌院○(2012.2)
- 葛飾北斎○(2012.2)
- 今夜はヒストリー
- 吉宗1716総軍総選挙○(2012.1)
- 吉宗将軍就任○(2012.2)
- 葛飾北斎○(2012.4)
- 井伊直弼○(2012.5)
- THEナンバー2
- 「江戸改革SP」○(2012.1)
- 「岩倉具視」○(2012.4)
- BS歴史館「西郷隆盛」◎(2012.4)
- 成彬に見いだされる。薩摩の殿様にバカはいない。詮議という問答方式の教育法で何をきかれても本人が答えられるように育てられているから。他の藩はバカ殿が多い。
- 西郷、僧月照とともに自殺未遂。