わたしの鼻は左きき
ある日、与作がいつものように木を切っていると、突然大きな鬼が現れた。 「お前を食ってやるうぅぅぅ」 腰を抜かした与作は、必死に懇願した。 「ひいぃぃぃ。なななななな何でもします。命ばかりはお助けを」 「よかろう。その代わり、お前のその立派な腕をもらおうか。両腕とは言わん。片腕だけでいいぞ」 「あ、ありがとうございます。ではこちらの腕をどうぞ」 与作は左腕を鬼に向けて差し出した。利き腕の右腕を残しておいた方が、木こりを続けて行く上で支障が少ないと考えたのだ。 「ではもらっていくぞ。ガハハハハ」 鬼の姿が消えた時、与作の左腕は肩の下からあとかたもなく消え去っていた。 与作は安堵の溜息と共に、その場に座り込んだ。命を落とすことに比べたら、腕の一本くらい安いものだ。それに、自分にはまだ右腕が残っている。 「ああ、よかったよかった。おれは運がいいぞ」 楽天家の与作は、軽い足取りで家路についた。 だが、さすがの与作も家の前まで来ると、はたと足を止めた。「女房になんて言おう。さすがに驚くだろうなぁ」 だが、いざ家に入ってみると、女房はすました顔で「あら、お帰り」とだけ一言。 拍子抜けした与作が鬼との一部始終を話すと、女房は目を丸くして言った。 「何言ってるのよ。あたしと一緒になった時から、あんたは片腕だったじゃないの」 どうやら、鬼に取られた部分は生まれた時からなかったことになるらしい。 与作は逆に安心した。いつもと変わらない夜がやってきた。 数日経ったある日。木を切る与作の前に、またもや鬼が現れた。 「今日はお前のその眼をもらおう。片方でいいぞ。どちらをくれる?」 物知りの与作は、眼にも『利き眼』があることを知っていた。遠くの一点を指さすときに、どちらの眼で照準をあわせるか。それが『利き眼』の判定方法である。 狩りのことを考えても『利き眼』は残しておいた方がいい。与作は左眼を指さした。 「ではもらっていくぞ。ガハハハハ」 片眼のない与作が家に帰ると、女房はすまし顔で「あら、お帰り」 いつもと変わらない夜がやってきた。 また別の日。木を切る与作の前に、三たび鬼が現れた。 「今日はお前のその耳をもらおう。片方でいいぞ。どちらをくれる?」 聞き耳をたてて物音を聞くときに使う方の耳が『利き耳』であることを知っていたので、与作は右耳を指さした。 片耳のない与作の顔を見ても、女房はすまし顔で「あら、お帰り」 いつもと変わらない夜がやってきた。 さらに別の日。木を切る与作の前に、四たび鬼が現れた。 「今日はお前のその鼻の穴をもらおう。片方でいいぞ。どちらをくれる?」 物知りの与作でも、さすがに『利き鼻の穴』の判定方法までは知らなかった。 「まぁ、鼻の穴なんてどちらでも同じだろう」 与作は深く考えずに左の鼻の穴を指さした。 「ではもらっていくぞ。ガハハハハ」 鬼の姿が消えた時、与作の鼻の穴は右側ひとつだけになっていた。 「鼻の穴なんて、片方だけでも呼吸はできるし、においも嗅げる。今までで一番被害が少なかったな。よかったよかった」与作は鼻歌を歌いながら家路についた。 だが、彼を待っていたのは、誰もいない家だった。かわいい女房の姿はどこにも見あたらない。 「一体どこへ……?」 心当たりに思いを巡らすうちに、与作は女房と知り合った晩のことを思いだしていた。「あの晩、おれは宴会で余興を披露したんだっけ」 ためしに傍にあった豆を残った鼻の穴に詰めてみる。だが、鼻の穴から飛び出した豆の勢いは、明らかにかつての力強さを失っていた。 ぽとり。 豆はむなしく床の上を転がった。 「女房のやつ、おれのこんなところに惚れていたのか……」 ひとり寂しい夜がやってきた。