飛鳥時代
即位年 | 在位 期間 | 実権 | 備考 | ||
前 | 592 | 37 | 33推古(額田部皇女) | 聖徳太子 (593〜622没まで) 蘇我馬子 (626没まで) | 女帝。 『古事記』に記された最後の天皇。 初の天皇号使用者? |
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629 | 13 | 34舒明(田村皇子) | 蘇我蝦夷 | 欽明天皇の嫡男・敏達天皇の孫。 推古天皇の死後、蝦夷により擁立 対立した山背大兄皇子 (欽明天皇の庶子・用明天皇の孫、聖徳太子の子) は蘇我氏と近すぎたため? 630第一回遣唐使(犬上御田鍬) | |
642 | 3 | 35皇極(寶女王) | 蘇我入鹿 | 女帝。 舒明天皇の皇后。 蘇我氏の権力増大を画策した入鹿が、 中継ぎとして擁立。 643入鹿、山背大兄王を襲撃 645乙巳の変(蘇我氏を滅ぼしたのは軽皇子?) | |
中 | 645 | 10 | 36孝徳(軽皇子) | 中大兄皇子(天智天皇)、 [中臣鎌足(669没まで)] | 皇極天皇の同母弟。 大化の改新。 |
655 | 6 | 37齊明(=皇極) | |||
661 | 10 | 38天智(中大兄皇子) | 皇極天皇の子。 | ||
671 | 2 | 39弘文(大友帝) | 弘文天皇 | 天智天皇の子。 即位はなかったとする説が有力。 母の倭姫王を立てて称制を行っていた? 672壬申の乱 | |
後 | 673 | 13 | 40天武(大海人皇子) | 天武天皇 | 天智天皇の弟(年上)。 直接戦闘で王位を奪った唯一の天皇。 初の天皇号使用者。中央集権。 672飛鳥浄御原宮遷都 |
686 | 11 | 41持統 | 持統天皇、 [藤原不比等] | 女帝。 天智天皇の娘。 天武天皇の妃。 694藤原宮遷都。 初めて太上天皇を名乗る。 万葉歌人。 | |
697 | 10 | 42文武(軽皇子) | 持統天皇(702没まで)、 藤原不比等 | 草壁皇子(天武・持統天皇の子)の子。 聖武天皇の父。 701大宝律令。 不比等は鎌足の子で文武の妃(宮子)の父。 | |
707 | 8 (3) | 43元明(阿閇皇女) | 藤原不比等 | 女帝。 文武天皇の母。 天智天皇の第四皇女。 持統天皇の異母姉妹。 710平城京遷都 712『古事記』献上 |
飛鳥時代年表†
推古朝(聖徳太子時代)†
- 593聖徳太子摂政に:暗記法「すごく盛んな聖徳太子」
- 593四天王寺造立開始:日本仏教の最初の寺。聖徳太子建立七大寺の一つ。
- 600第一回遣隋使:『隋書』の記述による。倭国は高句麗、百済、新羅とは国交を結んでいたが、この朝鮮半島3国は争いを繰り返していたため、外交の安定を求めて随と直接国交を結ぶことを画策。しかし、国書を持たず、国の政治の仕組みも説明できなかったため国交を拒否されてしまったとのこと。これが厩戸王に斑鳩宮造営を決意させた。
- 601斑鳩宮造営開始
- 603小墾田宮造営:推古天皇の住居。初の対外的な施設を備える宮。それまでの天皇は磐余で政治を行ってきたが、推古天皇は豊浦宮で即位して小墾田宮へ移った。隋に対し、国家の体裁が整っていることを見せるために急造。蘇我氏が飛鳥を中心に勢力をのばしていたことも関連。
- 603冠位十二階:『隋書』に記述があるので信憑性が高い。暗記法「冠の中がムレムレ散々だ」
- 604十七条憲法:役人の政治に対する心構え。暗記法「労惜しむな役人十七条」
- 『隋書』には記述がない。
- 『日本書紀』の「推古紀」の「十七条憲法」の箇所には19か所の誤字が(「小」を「少」、「無」を「非」と書くなど)。誤字は「推古紀」全体にまんべんなく同様に出てくるため、これはうっかりミスではなく、書き手の癖による誤字で、すなわち十七条憲法の元の条文を書き写したものではないので十七条憲法はこのときに創作されたのではとの説。しかし、書き手の癖であれば、元の条文を書き写す際に自分の手癖のついた漢字に書き改めてしまったという可能性も高いので(全体で漢字の使い方が統一されていないと気持ち悪いと考えるのは古代も現代も同じだろう)、それだけでは強く創作だと決めつける理由にはならないのではと思う。
- 厩戸王の時代にも「十七条憲法」があったが、条文は「日本書紀」に記述されているものとは異なっていた……というあたりが信憑性が高そう。
- 605斑鳩宮完成
- 607第二回遣隋使:小野妹子。国交を結ぶ。暗記法「群れなしたイモ」
- 「日出処天子」に煬帝が激怒したという説が広く知られているが、「摩訶般若波羅蜜多経」の注釈書の「大智度論」に「日出処東方」「日没処西方」という記述があるので、煬帝も単に洒落た引用と受け取ったのではという説のほうが信憑性がある。無事に国交を結べているわけだし。
- 「没」よりも自分を「天子」と呼んでいることのほうが問題だそう(天子は2人いてはいけないので)。だが、高句麗と緊迫した状態にあった随は倭国を味方にしておきたかった。
- 小野妹子が国書を紛失した問題。「本当に紛失した」「見せられない内容だったのでなくしたことにした(聖徳太子にだけは見せた)」「そもそも国書はもらえなかった」などの色々な説があるが、2、3番目が面白い。
- 裴世清が推古天皇にお辞儀をしたのは、対等外交の証ではなく礼節を尽くしただけという説も。結局、当時の倭国は怒りを買った隋に攻め滅ぼされるほどの認知も受けていなかったということかもしれない(東の果ての単なる島国という認識)。
- 607法隆寺創建(?)
- 箸を広める:それまでは手づかみやピンセットのような道具で食べていたが、隋に野蛮人だと思われないように導入。
- 6C末〜7C初頭:船原3号墳から出土した大量の馬具:新羅王宮製とみられている。当時倭国と対立関係にあった新羅から贈られているのは、ぎりぎりまで和平交渉を行っていたため? 対立する倭国中央部とは無関係の水軍が入手?
孝徳朝(中大兄皇子時代1)†
- 645乙巳の変:中大兄皇子、鎌足のクーデター。中立的に見れば、謀略によって勢力争いに蘇我氏が敗北した事件?
- 「日本書紀」に「蘇我氏は自分を宮門(みかど)と呼び、天皇になろうとした」との記述。
- 「日本書紀」の蘇我氏が横暴だったという記述は、文章の癖を分析するとあとから追加した可能性が。
- 「日本書紀」で「蘇我氏の大邸宅があった」と書かれていた甘樫丘を発掘(2007)。十坪の小屋がいくつかあったのみだった。未発掘の大邸宅が近くにある? やはり蘇我氏を悪人にするための捏造?
- 646改新の詔:公地公民。
齊明朝(中大兄皇子時代2)†
- 660百済滅亡
天智朝(中大兄皇子時代3)†
- 663白村江の戦い:百済を応援して朝鮮に出兵するも敗退。防人(九州北部で国防にあたった交代制の兵士)。水城(堀と土手)。
- 668高句麗滅亡
- 668天智天皇正式に即位:661〜即位までの間は称制(天皇不在で皇太子のまま政治を行っていた)。
- 669中臣鎌足没:藤原姓に。
- 670庚午年籍(こうごねんじゃく):日本最古の戸籍。
- 671大友皇子太政大臣に。大海人皇子隠居。
- 671天智天皇没
弘文朝(大友皇子時代)†
- 672壬申の乱
天武朝†
- 672飛鳥浄御原宮遷都(即位はまだ):初の天皇の都。エビノコ郭。天皇が一段高いところに姿を現し、主従関係を明確に。大王時代は家臣の前にあまり姿を見せなかった。
- 神事を作って天皇の神秘性を強調。武力で皇位を奪った後ろめたさを払拭しようとした?
- 天皇という呼称をはじめて使用。天の北極星を王とみなした?
- 天文や占いに詳しい。
- 新城遷都を画策するも崩御。新城は後に藤原京に。
飛鳥時代の人物†
聖徳太子†
- 施薬院(薬局)
- 療病院(病院)
- 「日本書記」に皇太子になったという記述。当時は皇太子という制度がなかった(天皇の死後次の天皇を決めていた)ため、聖徳太子が全権を担って政治を動かしていたという記述も信用できないという。しかし、聖徳太子側を擁護する視点で考えれば、当時も周辺の意見や世間認識として「もし今天皇が亡くなったら次の天皇は〇〇だろう」という共通の見解はあったろうから、それを「日本書紀」執筆時の言葉の「皇太子」として記述しただけという考え方もできる。593年という記述は摂政になった年には跡継ぎとして認識されていたという意味ととれば不自然ではない。そもそも「摂政」という名称の官職自体が当時あったかも疑わしいわけだが、天皇に代わって政治を行う役職そのものは当時もあったと考えた方が自然だろう……と個人的には思う。
- 厩戸王の実績として確証がとれているのは斑鳩宮、斑鳩寺の造営と移住のみだそう。
- 師匠は恵慈(高句麗の僧)。第2回遣隋使の派遣のタイミングもアドバイスした?
- 多くの渡来人が大和川から斑鳩宮へ。
- 朝鮮半島で争っていた3国の人々も倭国へと渡来してきた後は争うことはなかったという。仏教の和の教えのおかげ。
その他†
- 高句麗、新羅、百済の並び順は上から「コクシ」と覚えるといい。高句麗はその名の通り上。下に左から百済、新羅の順。
参考資料†
- BS歴史館「シリーズ英雄伝説(2)「聖徳太子は実在したのか!?」」(2012)○
- クローズアップ現代「明らかになる古代の日韓外交史」(2013)○