マッハ8万の叫び
おれを誰だと思う? おれは世界一の天才だ。 天才とは何か知ってるか? 博識な人間? それとも常人にはないヒラメキがある人間? どれも違うね。天才とは頭の回転の速い人間のことだ。物を考えるスピードが速ければ、より多くの知識を吸収できるし、より多くの物事を考え付くことができる。 物を考えるということは、脳神経の中を情報が行き交うということだ。そのスピードは、常人では速くても秒速100メートルほどだという。だが、おれの神経スピードは秒速2万8000キロメートル。音速で言えばマッハ8万以上だ。 実に常人の約30万倍の処理速度を持つおれは、広辞苑を数分で読破できる。1話1分と謳っているこのショートショートなど、0.0002秒もかからない(常人よりだいぶ劣る作者は今暗算に24秒を要したが、おれなら0.00008秒だ)。 厳密に言えば頭の回転が早いだけでは、そんな処理速度は出ない。本を読む場合であれば、目から脳に素早く情報が伝わらなければ意味がないからだ。だが、おれは体中の神経の伝達スピードが速い男なのだ。熱いものに触った指が耳たぶに触れるまでの所要時間が常人で約0.03秒なら、おれはそれを 0.0000001秒でやってこなすのである。 勉強だけではなくスポーツにおいてもおれは天才だ。 例えば野球をやるにしろ、飛んでくるボールの球速やコースが瞬時に判断できるし、バットで打った瞬間にどのような角度でふり抜けば長打になるかを計算することができる。同じ理屈で、ダンスも踊れれば歌もプロ並だ。思考のスピードが速ければ、なんでもこなせるのだ。 そんな完璧なおれにも、ひとつだけ欠点があった。 それはモテないことだった。おれは性格もよく、皆からの人望も厚い(なにしろ、常人の30万倍の思いやりがあるのだから)。女と喋っている間も、数万通りの口説き文句を考えることができる。しかし、どんなに言葉で口説いても、8割の女にはこう言われてしまうのだ。 「あたし、自分より背の高い人じゃないとイヤなの」 そう。おれの悩みは体が小さいことだった。背が低い上に体の線が細いおれは、見るからに貧相な体型だったのだ。外見で人を判断するような女の方に問題があるということを、天才のおれは重々承知している。だが、大きいに越したことはない。 その願いが、自分自身の頭脳によって解決される日がやってきた。おれは、体を大きくする薬の発明に成功したのだ。 「これで万能と呼ぶにふさわしい人間になれるんだ」 完成した薬をコップに注ぐと、おれはそれを一気に飲み干した。 たちまちおれの体は大きくなっていく。だが、ここで計算違いの出来事が起こった。きっちり身長182センチまで大きくなる予定だったのだが、おれの体はさらに巨大化を続けたのだ。このままでは天井を突き破ってしまう。 0.025秒でそれを察知したおれは、すぐさま対処法を考えた。「大きくなるのを止める薬」や「小さくなる薬」をゼロから作るヒマはさすがにない。今あるこの危機を乗り越える方法は……。 たちまち答えをはじき出したおれは、棚から取り出したある薬品を「大きくなる薬」に混ぜ、その混合物をあたりにまき散らした。すると、おれの体は適度な大きさのままで膨張をやめた。 どういうことかって? おれは周りに「大きくなる薬」をぶちまけることによって、自分だけでなく周りのものも大きくなるようにしたのだ。直前に混ぜたのは強力な伝染薬。つまり、「大きくなる薬」の効果は、たちまち世界中、いや宇宙中に及んだのである。 その瞬間から、おれを含めた全宇宙が膨張を始めたのだ。 それを知っているのはおれだけだ。みんな同時に膨らんでいるのだから気づかなくて当然。 だから、おれのことを気違い扱いするのはやめてくれ。おれは早く「全宇宙を小さくする薬」を発明しなければいけないのだ。 なぜそんなに急いでるのかって? 早くしないとおれが天才じゃなくなってしまうからだ。最近のおれは、つま先の痛みを感じるのに 0.1秒もかかってしまうようになったのだ。 別に普通じゃないかって? とんでもない。 体の膨張にあわせて、神経の伝達スピードも速くなっていたため、今まで不都合は起きていなかった。体が10倍になっても、痛みを感じるまでの時間まで10倍になるようなことはなく、今までと変わらない暮らしが送れていた。 だがおれは忘れていたのだ。 物質が光以上のスピードには絶対になり得ないということを。 おれや君の体は、今では昔の地球ほどの大きさになっているんだ。このまま体が大きくなり続けて、かつてのエリダヌス座εに足が届くほどになったとしたら、つま先の痛みが脳に伝わるまでに10年もかかることになってしまう。数回つま先をぶつけたらそれで人生は終わりだ。 早く何とかしないと我々は破滅だ。だから今すぐこの病室から出してくれ! おれは天才なんだァ!! ずっと側でその話を聞いていた中年の男は、笑いながら言った。「大丈夫だよ、安心するんだ。そんなことにはならないから」 「信じてくれ! おれは、本当に天才なんだ!!」 「ああ、信じる信じる」 「本当なんだってば!」 「だから信じるって言ってるじゃないか」その長身の男はニヤニヤしながら頭を掻いた。「実は、おれも若い頃に同じような失敗をやらかしたことがあったのさ。お前とおれの失敗でプラマイゼロだよ。……気づいてなかったのかもしれないが、お前さんが生まれる前からこの世界は縮み続けていたんだぜ」