恋の絵師
「惚れ惚れする」 「まさに世界一の美女だ」 「なんというまばゆさだ。直視できない」 その日、美術館に押し寄せた人々は、数年ぶりに公開されたその世界的名画を口々に褒め讃えた。 ガイドの声にも熱がこもる。 「この名画は、筆づかいの解析によりわずか数分で描かれたことが判明しました。数分でこの完成度。まさに驚異的です。これだけの絶世の美女に心底惚れ込んだからこそ、人間の隠されたパワーが引き出されたのかもしれません!」 すると群衆の中のひとりが呟いた。「ふん。そんな単純なことでこれだけの名画が生まれるものか。真相を知っているのは私だけだ」 「おじさん、どういうこと?」 「それはね……」 男は、甥っ子に向かって語り始めた。 * * むかしむかし千年前、ある国に美しい姫がいた。 姫には恋仲の男がいたが、男は身分の低い貧乏絵師だったため、王は結婚を許さなかった。 王が姫の結婚相手として連れてきたのは、人気絵師としての名声も高い貴族の男だった。 貧乏絵師との結婚を諦められない姫は、王に提案した。「二人に勝負をさせて。私を描いてもらうの。私のことをより愛してくれる人が、より心を打つ絵を描いてくれるはずだわ。判定はお父様に任せます。お父様は二枚の絵から名画だと思うほうを選んでくれればいいの。選ばれた絵を描いた方と私は結婚します」 かくして勝負は行われ、二人の絵師は姫をモデルに渾身の絵画を描いた。サインを隠して並べられた二枚の絵から、王は一枚を選んだ。そしてそれは貧乏絵師のものだった。 自分自身が選んだのだから王も文句は言えない。姫と貧乏絵師は結婚し、幸せに暮らしましたとさ。 * * 「その絵は一級の名画として国に代々伝えられた」 「それがこの絵なんだね!」甥っ子は目を輝かせておじを見た。 「いや違う。その勝負の際には、二人の絵師は数週間かけてじっくりと姫を描いたんだ」 「じゃあ、この絵は?」 「それはね……」 男はまた語り始めた。 * * むかしむかし五百年ほど前、ある国の王宮の中庭にて。 「さあ、私を描いて! うまく描いてくれた方と結婚するわ」 姫は目の前にいる二人の絵師に向かって言った。 この国では、二人の絵師を競わせて姫の結婚相手を選ぶことが慣習になっていたのだ。 二人は懸命に筆を動かした。だが、絵はなかなか完成しない。 「どうしたの? 分かったわ。私が美しすぎるから緊張してるのね! いいわ。時間はたっぷりあげる」 数時間後。二人の絵はやっとのことで完成した。 しかし、どちらの絵もまるで落書きのような稚拙な出来である。 それには理由があった。実は姫は「美の対極にある容貌」と評判だったのだ。性格もワガママだったため、婿を取ろうにもなかなか決まらない。姫を「世界一かわいい」と言い続けて溺愛している王によって、二人の絵師は無理やり連れてこられたのだ。 わざと美人に描くべきか、ありのままの姿を写実的に描くべきか、二人には皆目見当がつかなかった。気に入られて結婚ということになっても困るし、激怒されて処刑されても困る。二人に残された選択肢は、中途半端で稚拙な絵を描くことだけだった。 そんな事情を姫は露ほども知らない。「うふふふ! 美しすぎる私が悪いのね。お父様。二人の緊張をといてあげるためには、どうしたらいいかしら?」 「任せておけ」王は二人の絵師に何やら耳打ちした。すると、二人は猛然と筆を動かし始めた。 数分もかからずに、絵はたちまち出来上がった。目の前に並べられた二枚の肖像画を見て、姫は驚嘆の声をあげた。 「まぁ、すてき!!」 二枚の絵は、さきほどとはうってかわった素晴らしい出来だった。 それを見て目を丸くした侍従が、王にこっそりと聞いた。「王様、絵師に何と耳打ちされたのですか?」 王は悟りきった表情で言った。「なぁに、……『互いのサインを交換しろ』って言っただけじゃよ」 二人の絵師は、審判の時をただただ待っていた。全身をガタガタと震わせ、無数の脂汗を流しながら。 * * 「これがその勝負に勝った絵なんだね!」甥は歓声をあげてまた名画を見上げた。 「ああ。『好き』から生まれた美人画は数多くあるがこの絵はその真逆、しかも『死を覚悟しつつ嫌う』という極限の負の感情から生まれた傑作。ありきたりな名画を凌駕して当然というわけだ。そして我々はこの絵の真実の作者の子孫、勝負に負けて姫との結婚を免れた絵師の子孫なんだ。我が家に代々伝わるのがこの話なのだよ」 「そうだったの! すごい!! ……でもこの姫もかわいそうだね。ブサイク扱いされたり、王の計略でわざと美人に描かれたり……」 「そうとも限らないさ。姫は城からほとんど外に出ずに過ごしたそうだ。そして王や家来たちは姫のことを『美しい』と言い続けた。自分が美しいことを疑う余地などどこにもない生活。どこに不幸があるって言うんだい?」 「確かにそうだけど……」 「それに、二人の絵師が姫をわざと美人に描いたとは限らない」 「え?」 「モデルもなしでこれだけの名画がわずか数分で描けると思うかい? 二人は目の前の姫をただただ必死に写生したんじゃないかな。そして、その結果生まれたのがこの名画なんじゃないかと思うんだ。美醜の判断基準も時代によって大きく変化するからね。その証拠に、長らく美人画の最高峰だと人気だった千年前の絵も今じゃ……」 男の視線の先には、閑散とした一角に小さな額縁が飾られていた。男は甥の頭を撫でると言った。 「私たちも城の中だけで暮らした姫と同じなのかもしれないよ。周囲が美しいと口々に褒めるものを美しいと思い込んでいるだけ。街や国や星を囲む巨大な城壁に閉じこもって生きているのさ」