脱皮するトイレ
「お宅のトイレは服を着ていますか?」 突然やって来た男にこんなことを言われ、僕は一瞬絶句した。「……はぁ?」 とにかく暑い日だった。最高気温43度を記録したあの年の話なのだ。 * * その頃の僕はシナリオライターとしてはまだ駆け出しの部類だった。 今でこそ仕事場のマンションに自宅から通っているが、その頃は安アパートの自宅にこもりっきりで、日々原稿用紙と格闘していたのだ。 もともときれい好きな僕が執筆以外にすることといえば部屋の掃除くらい。そんな僕の頭を悩ませたのがトイレ掃除だった。うちのトイレは水道管の中がもともと汚いらしく、掃除をしても1日で便器が黒く汚れてしまうのだ。 当時の僕はトイレ掃除のために、貴重な時間を毎日30分も費やしていた。 「トイレさえ汚れなければ、もっと仕事もはかどるのに……」 そんなことを思っていた矢先、呼鈴の音と共にあの男がやって来たのだ。 「ははぁ。汚いですねぇ。まずは掃除してさしあげましょう」 男は我が家のトイレを見てニヤッと笑うと、持参した小さなバケツと雑巾一枚で、たちまち便器をピカピカに磨き上げた。 「さて、このままではまた汚れてしまいます。そこでこれを使います」 男が鞄の中から取り出したのは一本のスプレー缶だった。男は便器に向かってまんべんなくそのスプレーを吹きかけると、次に黒いインク瓶を取り出し、わざと便器を無闇に汚し始めた。 「さぁ、いいですか。よく見ていてくださいよ」男はマジシャンのような大仰なポーズをとると、便器のふちを親指と人差し指でそっと引っ張った。 「つるるんっ!」 そのあまりの鮮やかさに僕は驚いた。 ちょうど葡萄の皮の中から身がぷるんと出てくるようなイメージ。まさに便器の脱皮。薄くコーティングされた皮が汚れと共に一気に剥がれ、中からはピカピカの便器が現れたのだ。しかも、汚れた皮は瞬時に内向きにくるくると巻かれ、男の手のひらにすっぽりと収まってしまっている。 「これはいわば便器の服なんですよ。人間だって汚れた服は脱ぐでしょう?」 優越感をたたえた眼差しで僕を見ながら男は言った。「1本5千円です」 僕は即金でスプレーを買った。その恩恵を考えたら安い買物だ。 それに、スプレーが効果を発揮するのはトイレだけではなかった。部屋のあらゆる場所に吹き付けておいて汚れが目立ち始めたら「つるるんっ!」 服に吹き付けておいて汚れたら「つるるんっ!」 食べ残した料理に吹き付けておいて次に食べる時に「つるるんっ!」 保温性、抗菌性、適度な保湿&通気性を兼ね備えたコーティング素材は食品に対しても害はなく、肌触りも最高。もう掃除機も洗濯機も冷蔵庫も必要ないのだ。 そのスプレーは、世間でも一大ブームを巻き起こし始めていた。 世の女性たちはこぞってスプレーを身体中に吹き付け始めた。こうすれば肌荒れ防止の効果と共に、シミやシワも防げるのだそうだ。 街は冬でも薄着の人々であふれていた。皆、身体をコーティングしているため寒くないのだ。銭湯は軒並み潰れ、服飾業界は大打撃を受けた。 酒の席では「おれついにあの子を剥いだぜ」といった会話が交わされるようになった。その頃になるとたいていの若い女性は自分に警報機付きのコーティングを施すようになっていた。本当に気持ちを許した相手に出会った時にだけ警報機を解除して皮を剥かれるのだ。 交通事故による被害も激減した。コーティング材には衝撃吸収効果もあったのだ。自動車には厚いコーティングが施され、車同士の衝突はもちろん、仮に人と接触した場合でも捻挫や打撲といった軽傷で済むことが多くなった。 そんなわけでこのスプレー会社は巨万の富を築き上げた。 あれから定期的に我が家にスプレーを配達するようになったあの男に、ある時僕は何気なく尋ねてみた。「これって一体誰が発明したんだい?」 「本当は企業秘密なんですが……」少しの間のあとで男は答えた。「実は誰かが開発したわけじゃないんですよ。実はこれ、天然素材らしいんです」 「天然素材?」 「ええ。ある民間の資源調査機関が持ち帰った鉱物サンプル群の中に、このコーティング材と同じ樹脂状の物質が混ざっていたらしいんです」 「なるほど。君の会社がその物質を複製する技術を発見したわけだね」 「いえ、それが複製はできないんです。もちろん研究は進んでいるんですが、分析しても一向に構造が解明できないそうで……」 「じゃあ、在庫が切れたら終わりってわけかい?」僕は焦った。このスプレーがない生活など、もう考えられないのだ。 「ご安心ください。我が社の調査班がこの物質の埋蔵地帯を発見したのです」 「それでも埋蔵量には限りがあるだろう? あと何年くらい持つんだい?」 「大丈夫です。確かに最初の調査では、物質の層はわずか数メートルほどだという報告でした。しかしその後の詳しい調査で、物質はその地点を中心にかなりの広範囲にわたって分布していることが判明したのです。現在、日本各地でその層が発見されています。どれだけ採掘しても数百年は持ちますよ」 なるほど、それならば安心だ。男を見送った僕は安堵のため息をついた。 * * だが、あれから数年。 装甲に厚いコーティングを施した戦車と共に自衛隊員が街角を闊歩している姿を見るにつけ、僕の頭にはある妄想がこびりついて離れないのだ。 地下に埋蔵されている数メートルの厚さ層は、その後の調査で日本どころか世界全域に途切れることなく続いていることが判明したのだ。地球全体を包み込んでいるわずか数メートルの薄い層。そんなものが自然にできたとは到底思えない。誰かが層を作ったと考えるのが一番自然なんじゃないか? はるか太古の昔……巨大な宇宙人が自分のお気に入りの「ボール」にスプレーを吹きかけたのだとしたら……! 僕はたまらず身震いした。 今にも空に巨大な手が現れ、まるで葡萄の皮を剥くように地表をつまみ……。 「つるるんっ!」 その後には、争いも何もないきれいな地球だけが残されるのだ。