• 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
  • 室町時代 へ行く。

[[日本史]]
[[建武年間]]←室町&null;時代→[[戦国時代]]

||就任&br;年|期間|将軍|実権|備考・出来事|h
|~足&br;利&br;時&br;代|1336|||尊氏|1336湊川の戦い&br;(足利尊氏・直義×後醍醐:新田義貞・楠木正成)|
|~|1338|20|1尊氏&br;(1352-&br;宗良親王)|尊氏、&br;[直義、義詮]|1338建武式目&br;1350-51観応の擾乱|
|~|1358|10|2義詮|義詮|尊氏の第三子。尊氏の死後任命。&br;尊氏の存命中から政務には関わる。&br;1363大内氏、山名氏が幕府に帰参。政権の安定。|
|~|1368|26|3義満|細川頼之&br;(幼少期)〜&br;義満|父の死後11歳で3代将軍に。幕府の繁栄。&br;北山文化。&br;1378幕府移転(三条坊門→北小路室町)※花の御所&br;1379康暦の政変(頼之罷免、後に復職)&br;1383源氏長者に(武士初)&br;1389土岐康行の乱&br;1391明徳の乱&br;1392南北朝合一&br;1394太政大臣に|
|~|1394|29|4義持|義満〜&br;1408義持|1397義満が金閣を造営。&br;1399応永の乱:vs大内義弘。有力守護大名を完全制圧。&br;1401義満が日明貿易:朝貢形式に批判もあったが実益を優先。貿易の見返りに倭冦を取り締まる。&br;1404義満が勘合貿易&br;1406義満が妻の日野靖子を後小松天皇の准母に:義満自身が天皇の父と同等であるという権威付け&br;1408義満の次男の義嗣が清涼殿にて元服:天皇並みの待遇。義満は溺愛していた義嗣を跡継ぎにしようとしていた?&br;1408義満死去(暗殺説あり)&br;反義満的政治。&br;1411日明貿易停止&br;1419応永の外冦|
|~|1423|2|5義量|義持|義持の子。義持が存命中に18で死去。|
|~|1425|4|(空位)|~|1428義持死去|
|~|1429|13|6義教|義教|義量の弟。籤引き将軍。&br;仏門に入っていたが、義持の急逝により籤引きで将軍に。&br;幕府の復興。中央集権。冷徹政治「万人恐怖」。&br;1428正長の土一揆&br;1435比叡山との抗争&br;1439永享の乱(鎌倉公方・足利持氏)&br;→1440結城合戦(安王丸・春王丸)&br;→1441関東平定&br;1441暗殺(嘉吉の変、赤松満祐)|
|~合&br;議&br;時&br;代|1442|7|7義勝|細川持之〜&br;畠山持国|父義教の暗殺により9歳で将軍に。&br;在任8ヶ月で死去。&br;1441嘉吉の土一揆|
|~|1443|6|(空位)|畠山持国||
|~|1449|24|8義政|畠山持国〜&br;日野富子&br;細川勝元&br;山名宗全|兄義勝の死後、8歳で将軍職に選出〜元服時に将軍に。&br;政治的な功績はなし。東山文化。&br;正室日野富子。日本を戦国の世にした張本人?&br;1467応仁の乱|
|~|1473|17|9義尚|日野富子|義政と日野富子の子。緑髪将軍。&br;1473義尚、8歳で将軍に&br;1477応仁の乱終わる。&br;1482義政が銀閣の建築に着手&br;1489六角討伐中に25歳で死去&br;1490義政死去|
|~|1490|4|10義材|細川政元|義政の弟足利義視の子。島公方。流れ公方。&br;1493明応の政変(将軍廃立、戦国時代の開始)|
|~戦&br;国&br;時&br;代|1494|14|11義澄|~|義政の養子。&br;1496日野富子死去&br;1507政元暗殺|
|~|1508|13|10義稙&br;(=義材)|大内義興&br;細川高国|1513義稙に改名|
|~|1521|25|12義晴|細川高国〜&br;三好元長&br;(義晴は追放)〜&br;六角義賢|義澄の長男。義稙を追放した細川高国が擁立。&br;眼鏡をかけていた?&br;1523義稙死去&br;1527桂川の戦い(細川高国敗戦)&br;1531天王寺の戦い(細川高国死去)&br;1534六角義賢と帰京|
|~|1546|22|13義輝|六角義賢&br;三好長慶&br;細川晴元ら|父義晴の譲位で11歳で将軍に。&br;1547細川晴元に攻められ父義晴と共に京落ち&br;1550三好長慶に攻められ義晴死去&br;他にも何度も攻められている災難な将軍。&br;1565永禄の変→義輝死去(三好三人衆・松永久秀)|
|~|1565|3|(空位)|||
|~|1568|1|14義栄|三好義継|義澄の孫。&br;1567将軍就任申請(金欠で将軍就任が&br;朝廷になかなか認められず)&br;1568やっと将軍に就任&br;1568信長入京→義栄は阿波国へ&br;(京都には一度も入れず)|
|~|1568&br;〜&br;1573|5|15義昭|信長|義晴の子。義輝の弟。流れ公方。&br;1569信長『殿中御掟』&br;1573武田信玄病死&br;1573室町幕府滅亡(義昭は河内へ)&br;しばらく復権を目論んだものの結局秀吉の家臣に。&br;1588義昭、関白豊臣秀吉に従って参内&br;(この時まで名目上は将軍だった?)&br;1597義昭死去|

*室町時代の年表 [#h53c9fd1]

-1415如拙「瓢鮎図」:義持の命で描かれた。義満に愛されなかった義持がアイデンティティを確立するために禅に傾倒。
-1461寛正の大飢饉:8万人が死亡。義政は無策。天皇が怒りの手紙を。
-1467応仁の乱(1477まで11年間続く)
--義視(義政の弟)派vs富子・義尚(義政の子)派
--細川勝元(16歳で幕府ナンバー2になったエリート)vs山名宗全(赤入道と呼ばれた重鎮):当初は勝元&義視派vs宗全&義尚派だったのが、勝元&義尚派vs宗全&義視派に。
--有力大名の家督争いも加わり、各家を2分しての争いに。
--27万人が京都で争った。日本国内史上最大人数による戦争。
--義政は酒浸り。父義教(籤引き将軍)が政治に精を出した挙句に暗殺されたので、政治をやっても報われないと思っていた?
--日野富子が米を買い占め。両軍に高利貸し。通行税。幕府財政の立て直しのため? 70億円を稼ぐ。


*室町時代の人物 [#f37d49f3]
-義政
--建築
---銀閣寺:同仁斎(四畳半の元祖)
---枯山水
--茶道
---能阿弥を庇護(茶器、闘茶)
---信長は義政を尊敬していたので千利休を庇護。
--華道・香道とともに3大芸能を確立。
--水墨画
---雪舟、狩野正信を庇護(影響は→狩野永徳→狩野探幽→尾形光琳と続く。光琳はクリムト、アンディ・ウォーホルにも影響を)


*参考資料 [#f6de4d4c]
-今夜はヒストリー「応仁の乱と足利義政」(2012.2)○