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[[平安時代]]

※義経に関するメモです。

-江戸時代に作られた英雄。
--室町時代に書かれた「義経記」には弁慶は出てこない。義経は猿のような小男として描かれている。

-江戸時代に義経は楊貴妃のような美少年ということに。陽が義経なら弁慶は陰。小男と大男。柔と剛。
-「なぜ橋で戦ったことになったかといえば、清水寺だと絵に描くのが大変だから」という話。納得。確かに屋根を描くだけでも大変な労力だ。
-一の谷の合戦の鵯越の逆落としの伝説。馬が小さかったのでいけた? ズルズルとすべるように降りた? そもそも馬で突撃する必要性があったのか?
-義経は部隊を編制して組織的に戦おうとする人ではなかったことがわかる。不意打ち。山賊のやり方。関東武士はそういった山賊戦法を使う傾向があったので西国武士の平氏は驚いた。

-壇ノ浦では水夫を討つ禁じ手を使用。源氏側でもそのやり方に驚いたが、庶民から見ると痛快。

-福原を山から攻めて成功させたのは多田行綱。平家打倒の最大の功労者は多田?
-平家の滅亡を描いたのが「平家物語」。平家滅亡までをドラマチックに描くには、最初から最後まで共通したヒーローが必要だった。白羽の矢があたったのが義経。

-後白河法皇に重用された義経。頼朝はいずれ敵対勢力になるのではと思う。

-そもそも母親が違う兄弟なので、それほど情は感じていなかったともいわれている。

-梶原景時が密告。頼朝が死んだらすぐ北条氏に粛清されている。
-腰越状。石坂浩二氏は義経の筆ではないという意見。野心がないとの具体的な証拠が書かれていないから。北条氏が書いた?

-「吾妻鏡」に描かれているように後白河とのつながりを疎んだのであれば、鎌倉に呼び寄せて謹慎させればよかったのだから、それは間違い。「吾妻鏡」は北条氏の編纂。「頼朝が冷酷だったから源氏は早く滅びた」というストーリーにしたかった。
--義経は平時忠の娘と結婚。平家の残党を組織して頼朝に対抗しようと画策していた?

-頼朝は武士が東国の頼朝派と、西国の義経派に二分されるのをおそれた。
--義経は封建制度の主従関係を知らなかった。父性を求めて頼朝に「兄」を求めたが、頼朝は「弟」としてではなく「家来」としてしか扱えなかった。主従関係を重んじる東国の常識では当然?
--義経自身が頼朝に対抗しようと考えなくても、周囲の武士や、後白河が考えてもおかしくない。

-義経のことが描かれた書物。
--『平家物語』
--『吾妻鏡』
--『義経記』

-義経の首が鎌倉に届けられたのは40日後という吾妻鏡の記述。判別ができなかったのではないか。

-生き残った伝説は、日本領土が拡大するとともに遠くへ。北海道が開発され日本という意識が強くなると蒙古へ。

-日本には殺された人が怨霊にならないように寺を建てる風習が。蘇我入鹿も菅原道真も。義経や為朝は公式に寺を作って慰霊されていない。武士だからきりないから。だから庶民の気持ちとしては怨霊にならないためには死んでいないことにしておきたかった。

*参考 [#r0170a14]
-BS歴史館 シリーズ英雄伝説(1)「源義経 悲劇のヒーローはこうして生まれた」◎(2012.1)