桃山時代

日本史安土桃山時代

桃山時代の実権と区分

上の表を全画面表示

桃山時代の年表

  • 1589聚楽第落首事件:茶々が鶴松を懐妊。聚楽第の門の屯所の壁に秀吉を揶揄する落首。「刀狩で作った大仏のおかげ」「秀吉の子じゃない」などと揶揄した者、警備担当者らが秀吉によって多数処刑された。
  • 1589.5鶴松誕生
  • 1591.8鶴松病死(享年3歳)
  • 1591.12秀次関白に:秀吉は子供をあきらめ、おいの秀次に関白を譲ったが、1年後に秀頼を懐妊。
  • 1593.8秀頼誕生
    • 秀吉の子じゃない説(イケメン大野治長?)
  • 1595.7秀次事件:秀次を追放〜処刑。最初は秀頼を秀次の娘と結婚させることで次期関白にする予定だったが、生きているうちに秀頼の関白姿が見たくなった秀吉が秀次を追放し処刑。その子供、縁者らも処刑。
    • 朝鮮出兵に反対する大名に金を貸していたため、謀反の疑いをかけられた。余談だが、家康は朝鮮に兵を出していない(反対論者だったうえに江戸の造営に忙しかったから。江戸の領民の反対運動にあっていたため、埋め立てを行って土地を作らなければならなかった)。
    • 結果的に豊臣家の滅亡を早めることに。秀次や一族が生き残っていれば、家康も挙兵しにくかったのでは。
    • 石田三成関与説も。
  • 1595方広寺の盧舎那仏像(京の大仏)完成:奈良の大仏よりも大きい。

桃山時代の人物

豊臣秀次

  • 養子として転々とした子供時代。子供のいなかった秀吉に利用された。
  • 小牧長久手の戦いで奇襲戦法の大将に名乗り出るが大敗。秀吉から「役立たぬなら殺す」という書状を受け取る(この時点では叱咤激励の類?)。
  • 近江八幡を商業都市として開発。上下水道を完備した他に類のない都市。建物を碁盤目状に配置(平和宣言? 天下統一で平和になることを見越していた?)。信長への憧れ(安土の瓦礫を町づくりに使用。安土の商人を移転させる)。
  • 1589小田原攻めに先鋒として参加。天下統一に貢献。
  • 1591.12秀次関白に:文化的政策。学問好きの後陽成天皇や貴族と懇意に。朝廷や貴族の弱体化を狙っていた秀吉の思惑とは外れた方向性へ。
  • 1593.8秀頼誕生:秀吉が懐柔(「秀次の娘と秀頼を結婚させる」「日本の1/5だけを秀頼にくれ」など)。秀次は従わず保留に(任命権は天皇にあるため、天皇と懇意な自分は身分を剥奪されるようなことはないと秀次は思っていた?)

細川ガラシャ

  • 秀吉に呼ばれた際にわざと短刀を落とし、何かされたら自害も辞さぬことを示した。
  • 細川忠興の溺愛。ガラシャの着るものを全部自分で選ぶ。手作りカルタプレゼント。ガラシャに会釈をした庭師を斬り殺す(斬り殺した血の付いた刀を自分の着物で拭き、それを3日間着続ける)。
  • 三成が徳川方の武将の妻を人質にとろうとするも失敗。ガラシャは死亡。三成への反感が高まり、関ヶ原の命運が決まるきっかけに。
  • 明智光秀の三女。細川忠興に15歳で嫁ぐ。その後、本能寺の変が。幽閉を終えて戻ると細川忠興には側室が。キリスト教は一夫一妻制。
  • 秀吉の死後、細川忠興は家康派に。三成に人質として要求されたが、人質になることよりも死を選んだ(キリスト教では自殺が禁じられていたので家来の小斎に刺させた)。子どもらは逃げられたのでガラシャも逃げられたはず。なぜ死んだのか。
  • 侍女の霜が残した詳細。見つけたときにはガラシャはすでに死んでいた。ガラシャはキリスト教に心酔。周囲の者が次々とキリスト教に改宗していく。秀吉の弾圧。ガラシャを大坂にとどめておきたかったイエズス会。秀吉の死後、三成は禁教派。家康は擁護派。イエズス会は家康を勝たせたかった。人質の話を聞いたイエズス会はガラシャに侍女を3人解雇させた。熱心な信者だった小斎に暗殺させた。ガラシャの死は3日で全国に広がり、どちらにつくか迷っていた大名は家康方に。
  • 生涯がヨーロッパでオペラに(さらなる宣伝に利用? 謝罪の意味も含む?)。マリー・アントワネットも鑑賞。

桃山時代メモ

  • 秀吉の死後は家康と前田利家の2トップ。利家がいる限り、家康は下手には動けなかった。言い換えれば、この時点で天下取りの可能性があった武将は大勢いたということ(家康と利家の2人がもし同時に死んだら、勢力図はどう転ぶかわからなかった)。
    • 家康は周りから孤立していたので三成とタッグを組んだ。もともとは仲良しコンビだった。

参考資料

このページをシェアする
Share on Tumblr